2011年12月25日日曜日

私の東日本大震災 3


3月16日、17日(水木)

相次ぐ爆発によって大量の放射性物質が拡散したようで、
原発にはヘリでの放水も難しいほどの放射線が出ていたのがこの日だ。
緊張が張り詰めている。使用済み核燃料棒の危険性の顕になり、
コンクリートポンプ車での放水も検討され出した。
誰が見ても想定範囲よりもずっと悪い状態であることは明らかだ。
一時情報に統制の動きも見えてきた。
検出された高濃度の放射線についての報道が消されたり、
今後の見通しについての報道等も消えた。
恐らく最悪の事態が起こる可能性が最も高まっていたのがこの頃だろう。
15日前後に大量に放出された放射能の影響か、
茨城や埼玉でも一時1μSv/hレベルの放射線が観測された。

3月18日(金)

この日、最悪の事態のリスクを回避するために関西に一家で避難旅行に出かけた。
妊娠初期の妊婦や幼児がいる身としては、
格納容器の爆発や使用済み核燃料の再臨界の可能性が下がるまでは福島から500kmは離れておきたかった。
目的地はまずは滋賀県。目指す途中に被災地に向かう消防隊などとも遭遇した。
名古屋よりも西はほぼ通常の生活になっており、今までの日常がすばらしかったんだなと実感。

3月19日~21日(土日月)

19日、20日は原発の状況が以前として気が抜けない。
せっかく滋賀に来たので観光をしたりして気分転換。
京都にも行ったりした。

21日になり、週末に比べて原発の爆発リスクは低減したと判断したことと、
子供と妊婦だけ置いて行くのは出来るだけ避けたかったので帰宅。

3月22日~28日

前日からの4日間、ついに雨が降り、関東地方に放射能が降り注いだ。
その量は、大気中の核実験が行われた1960年代の総量のおよそ3倍だったが、
健康にはほぼ影響はないレベルだった。

11日~15日の放射能がばら撒かれたとき、原発周辺の風向きは海を向いていた。
この風はまさに神風で、この風向きが逆を向いていたら、関東の被害はこんなものではなかっただろう。

原発の状況に若干良いニュースが出てきたのもこの頃だ。
コンクリートポンプでの放水や、ヘリからの放水が実施出来たのだ。
これにより、少なくとも原発のすぐ近くまで人が近づけることが分った。

事態は悪化の一途から、膠着状態へ変わってきたことの証明だった。

また、関東地方の水道水にも放射性物質が検出され、ミネラルウォーターは姿を消し、
各種の作物にも放射性物質が続々と検出された。

週の後半以降では、やっと今後の見通しが語られるようになってきた。
非常に困難な難題を越えて、1兆円~数十兆円とも言われる保障や復旧費用と、
数十年以上の時間を掛けていくそうだ。


3月29日~4月

やっと被災地や原発の状況が若干の落ち着きを見せ、復旧への第一歩が踏み出せる気がしてきたのがこの時期。
しかし、死亡者行方不明者は合わせて2万8000人を超え、津波によって東北の沿岸の街は軒並み壊滅的な打撃を被っており、
復旧の計画すら侭ならない状態だ。

原発からは現時点でチェルノブイリの1/10ほどの放射能が放出され、
半径30km以内+αの土地は人が長期に渡って住めないほど汚染された。
海洋汚染等により、各国の目も厳しい。

原発事故のレベル7引き上げや、連続するM6~7クラスの余震は、この震災が未だに初期段階であることを明確に示している。

管総理がこの頃に言ったとされ、批判を受けている二つの言葉は、恐らく事実で、今後証明されるだろう。
「最悪の場合、東日本が潰れる危険性があった。」
「(原発の周囲は)当面住めないだろう。」

次回に続く

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